正宗白鳥さんという作家が居た。
わざわざバカ丁寧に書いたのは、おそらく正宗さんを知っている方は少ないだろうと思ったからだ。
私は大学で国文学を学んだが、不勉強がたたってか、全く知らなかった。
正宗さんを知ったのは小林秀雄の「作家の顔」という文章を読んだから。昭和十一年に書かれたこの評論をきっかけに、小林さんと正宗さんはトルストイの死の意義に関してバチバチとやりあった。
『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』等で知られるロシアの文豪トルストイは、裕福であったにも関わらず民衆を慮り、民衆への思いやりを表した作品を多数残した聖人の様な人であったということになっている。
それ自体はおそらくその通りなんだろうが(私はトルストイがあまり好きじゃないのでどうも後ろ向きだ)、同時に彼は大の恐妻家で、奥さんが恐くて家出をし、最後は駅で肺炎になって死んでしまった。
生前の輝かしいばかりの功績と裏腹にその亡くなり方はあまりにも夢のないもので(生前に人格的にボロクソ言われたドストエフスキーは奥さんに見守られて亡くなっている)、当初日本には、詳細はぼかして伝えられてたそうだ。
段々と詳しい情報がわかってきて、トルストイとは何だったのかということになり、小林さんと正宗さんが真っ向から対立して紙上論戦を繰り広げ、トルストイ家出問題と呼ばれる評論史上の事件になった。
もっとも紙上では激しくやり合ったものの、小林さん自身は正宗さんが大好きで、後年は仲良く対談などもしている。
その正宗さんの作品が、現在は青空文庫で読めるので、短い随筆ばかり、いくつか読んでみた。
理詰めでガチガチの論文を読み慣れた現代人には合わないかも知れないが、正宗さんの随筆は、明治〜昭和初期のゆったりした時代を思わせる、少し古風な、とても美しいものだった。
今回取り上げた「論語とバイブル」も、とても短い。
私がこれを取り上げようと思ったのは、レビューで「踏み込みが足りない」という趣旨の意見を読んだから。
タイトルが「論語とバイブル」であるが故に、哲学的な分析を期待して読まれたのだろうが、これは随筆であって、論文ではない。
正宗さんはクリスチャンだったので、聖書は勿論読んでいるし、この時代の人だから論語も読んでいる。
それでもこの作品の中で書かれているのは、聖書へのゆるい批判と論語へのさらにゆるい批判だ。要は「こんなもん、ない方が良い」というものだ。宗教も規範もなくて良い、ない方が世の中よほどマシになる、という身も蓋もない内容だ。
正宗さんの随筆はどれもこんな感じの緩い流れのものばかりだ。
ふわふわと話が始まって、結論の出ないまま次へと進み、なんとなく終る。
どこかで見た展開だと思ったら、私の知ってる大正生まれの老婦人の語り口調と同じだった。
女学校に行ってた世代の老婦人は、人と別れる時に「さようなら」と言う。
当り前の言葉だけど、少なくとも私の世代には「さようなら」という人は居ない。せいぜい「じゃあね」とか「またね」とか、そんなもんだ。
昔の人は「さようなら」を「左様なら」と書いた。機会があったらそれくらいの世代の人が言う「さようなら」を聞いてみると良い。まさに「左様なら」と発音している。今の時代にはない、おっとりとした上品な響きだ。
正宗さんの随筆のゆったりとした雰囲気は、まさにその「左様なら」という音に似ている。区切りがなく、余韻があって、上品な言葉の流れ。
小林さんは、正宗さんの文章のことを、こんなふうに言っている。
「名文というものは実際あまり興味ないのだけれども、ほんとうに興味ないのだけれども、あれだな、ああいうのはいいな。終りがないんだよ。ずっと読んでいくと前につながるんだよ。そういうところは音楽みたいだな。正宗さんの文章を読んでいると無心になる。なんにも考えなくなる。ああいうのはやはり名文だな。なにが書いてあるなんてのはつまらんな。」
(「白鳥の精神」小林秀雄・河上徹太郎 『小林秀雄対話集』講談社文藝文庫)
侘びものの世界では、無粋な事を言うと「あなたにはまだ早い」と言われてしまう。
件のレビュワーにもいつかわかると良いけれど。
〈これの話ね〉
論語とバイブル
10分くらいで読める。
作家の顔
小林さんて喧嘩が好きよね。
戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)
宮崎駿作品に通じる「みんな良い人」調の話(主観)。ツッコミどころ満載で、最後はいやいや読んでいた。ドストエフスキーの描く「善人」(『白痴』のムイシュキン公爵とか『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャとか)とはまた違う。ドストエフスキーの描く善人は「こういう人はこの世にはいない」というのが前提なんだけど、トルストイは「基本的にみんな善人」という目線。共産主義ってこういう視点から始まってるんだろうなぁというのがよくわかる(私はだまされませんよ)。
〈これの話ね〉
論語とバイブル
10分くらいで読める。
作家の顔
小林さんて喧嘩が好きよね。
戦争と平和〈1〉 (新潮文庫)
宮崎駿作品に通じる「みんな良い人」調の話(主観)。ツッコミどころ満載で、最後はいやいや読んでいた。ドストエフスキーの描く「善人」(『白痴』のムイシュキン公爵とか『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャとか)とはまた違う。ドストエフスキーの描く善人は「こういう人はこの世にはいない」というのが前提なんだけど、トルストイは「基本的にみんな善人」という目線。共産主義ってこういう視点から始まってるんだろうなぁというのがよくわかる(私はだまされませんよ)。