2016年3月5日土曜日

楽する事ばっかり考えている


敢て誤解を恐れずに言えば、私は常に楽をする事ばかり考えている。
何かの作業をしていて手間がかかると「やり方が間違ってるんじゃないか」と思えて来る。
原始時代ならばともかく、これだけ進んだ世の中で手間がかかるやり方がまかり通るなんておかしい、別のやり方がきっとあるはずだ、と考え出すと止まらなくなる。




周囲を観察していると、最終的にどこに行き着けば良いのかを考えて逆算して過程を考える人と、やりたい所から手を付けて行き着いた先が終着点と思う人と、二つのタイプがあるように思う。


私はかつて後先考えずにやりたい所からやっていくタイプだった。
作業効率が悪いだけでなく、最終的に辻褄を合わせる事も考えずにやっていたので、馬力が続く間しか前に進めなかった。
体力がある方ではないのですぐにガス欠になり、最後は人に辻褄を合わせてもらうと言う「最低な奴」(友達・談)だった。

いろんな人に会って教えてもらっていくうちに、工夫することでいかに省力化できるかを学んだ。同じ量の作業でも、先に段取りを考えて無駄のないように割り振れば、少人数かつ短時間で終わらせることができる。

工夫が好きな人同士で考えを出し合うとなお良く、各々の得意分野を活かして行程をパズルのように組み立てられる。
ラインに連なる単純作業をダラダラ続けるよりも遥かに効率的だし、参加している人達の満足感にも繋がる。
満足感はさらに次のアイディアを生むエネルギーになる。


別に難しいことではなく発想と価値観の転換の問題なのだけれど、そういう発想を是としない集団心理に、それがいかに益のある話かを説得することが難しい。
「忙しそうに動いて時間いっぱい作業をこなす事=仕事」が是とされていると、省力化を「さぼっている」と取られてしまうからだ。

多勢に無勢の場合や、集団のトップが柔軟な発想を好まない場合は「長いものに巻かれろ」という方がむしろ速いこともある。

でも、人が複数人集れば必ず工夫好きな人はいるもので、そういう人たちと知らん顔して少しずつ工夫することを始めていけば、いずれそれが大きくなるんじゃないかと思う。

工夫を受け入れない人は工夫する発想が出来ないだけで、工夫が嫌いな訳ではない。自分の方法論が否定されることに腹を立てるだけで、否定されている訳ではなくその方法論をさらに発展させようと思われているのだとわかれば、少しずつでも傾いてはいく。

 まずは「楽すること=悪」という価値観を変えていかねば。