2016年3月25日金曜日
見ばえって
土台を作るのは好きだが演出は苦手だ。
何もない空間に必要な要素だけ、かつ美しい線を描くデザインが最上だと感じるので、ただ装飾目的で付加されたものに、どうしても抵抗を感じてしまう。
装飾の意義がわからないから装飾のための発想ができない。
我ながら面白味がない人間だと思う。
何もない空間に必要な物だけがある、という美意識をミニマルだとか禅の美だとか世間が大きな声で評価するようになったのはごくごく最近のことで、ついこの前まで装飾のないものは「殺風景」と言われていた。
商売観点から言えば、装飾というのはぶっちゃけ「垢隠し」でもある。
製造工程でどうしても生じてしまう難点を隠す為に装飾を加える。
一般的な生活で見れば、装飾は殺風景な光景に趣を添えるものだ。
何もない空間に花を一輪飾るだけで、場を和ませ、空間が引き立つ。
装飾は人をもてなす心遣いであり、生活を彩ることで活力を与えようとする前向きな気持ちの表れでもある。
空間の演出が上手な人と話をしていた時、「デザインと実用性は両立するか」という話題になった。
その人は「デザインと実用性は両立しない」という。「営業と企画が対立するのと同じ」だそうで、デザイン性を重視すれば実用性を殺すのは仕方ないし、実用性を重視すればデザインは悪くなる、業務用の機器に優れたデザインがないのと同じだと言っていた。
私の考えは違っていて、「本当に優れたデザインは実用性を伴うものだ」というのが持論だ。突き詰めて考えた実用的なデザインは美しい筈なのだ。美しくなければそれは突き詰めて考えられていないからだし、装飾だけが目的のデザインは、美しくはないのだ。美とは用と要から成立つ、と思うのだけど、「それは理想」と言われた。
確かに理想だ。現実性は妥協だし、妥協で世の中は成立っている。
故に、禅は精神世界の美意識なのだ。
見ばえって難しい。