2016年4月3日日曜日

評価と中味の無関係っぷりについての考察



私の友達は変わった人が多いらしい。
自分ではそう思ってもいないが、周囲から言われる。
友達になった頃はお互いに学生だったから、たまたま隣の席になったとか、同じクラスだったとか、知り合いになったきっかけはそんな程度で、お互いにごく普通の子供だった。
学生の頃に表面に出ているものなんて、人間のほんの一部分だけなのかも知れない。




私は社交的な方でもないので、自分から率先して友達を作ったという記憶があまりない。
どちらかというと孤独に強く、窓のそばで一人でぼーっと外の景色を見て居るのが好きだった。
一人で外を見ていると、必ずと言っていいほど「何見てるの?」と寄って来る人がいて、「外見てる」と答えると、会話が始まる。
そういうふうに友達になった人の成れの果てが、今の私の周りにいる変人達だ。


ほとんどの友達と一対一で友達になっているので、その人が普段はどんな友達と一緒に行動していて、クラスの他の人達からどんなふうに見られているのか、ということもよく知らなかった。

顔見知りになって喋っていくうちに、面白い子だなぁと思っていたら意外にも仲間はずれにされていた子だったとか、物知りな人だなぁと思っていたら意外にも成績が良い人だったとか、別の人からの評判を聞いてその友達の属性みたいなものを知った。

人の評判を先に聞くと実際の個性は見えて来ないもので、どんな人かはわからないけど話しかけられたから話てみた、という方がその人本来が持っているものがよく見える。

もっとも、一人でぼんやり外を見ていた私に話しかける人だから、やはり群れの中に収まるより自分のペースでいるのが好きな人が多かったんだろうとは思う。
孤独に強ければ個性が強くなるのも当り前で、現在の変人っぷりは必然だったのかもしれない。



そんなふうに友達になった人達と喋っていくうちに、私は自分独自の人の基準を持つようになった。
話をしていて、納得がいくかいかないか。矛盾を感じるか感じないか。すんなり受け入れられるか受け入れられないか。
主観的な自分の基準だけで人を見ていて思ったのは、「人の長所は様々だ」 ということだった。


小学校の時の友達でやたら世話好きで教え好きな子がいて、教えるのが好きな子なんだと思っていたら、そのうちに県で一番の高校に入った。「まぐれだ」と思っていたら、京大に入った。「京大もまぐれだ」と思っていたら、博士課程まで進んだ。そこまで行ってやっと「頭のいい人だったのか」と認識した。それくらい、普通の人だった。

べつの友達はお絵描きと刺繍が上手かった。家庭科の課題を見て親が嘆いたくらい刺繍がヘタな私の傍で、さっさと美しい刺繍を仕上げていった。その子はそのうち校則で禁止されている改造した制服を着るようになった。学校でもあまり見かけないようになって、「ぐれてたんだ」と知った。でも会えば声をかけてくれたから、私に取っては普通の人だった。


私に取ってはどちらも同じような友達で、何がどうということもない。
同じ基準で見ると、前者も後者も同じような人達だからだ。
同じようにまともなことを喋っていたし、同じように私の言うことを理解してくれていた。

人間が本質的に持っている長所と、その人の属性はあまり関係がない。
どんな立場でも頭がいい人は頭がいい。
客観的な評価は公平ではあるけれど、評価基準がすべてをカバー出来る訳でもない。
利口な人はその辺に早く気づいて、さっさと競争から離脱したりしていることもある。


人の基準で物事を計ってもあまり得なことはない。
自分なりの基準で人を見ると思わぬ長所を発見することがある。
自分が自分以外になることはないのだから、自分の基準を持つということは結局自分にとって心地いい環境を作り出す第一歩になる。
自分で自分を幸せにする、というのはそういうことなんじゃないかと思う。
 

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窓辺に立ってこれで外を眺めていたらシャレにならん。誰も近寄って来ないか、みんなが近寄って来るか、どっちかだなぁ。