内田百閒は、同じ漱石の門下生だった芥川龍之介と交流があったそうで、芥川の、特に晩年の様子を記述した随筆をいくつか残している。
晩年と言っても35歳で亡くなったし、原因も自然死ではなく自死であったから、いわゆる老衰の場合の晩年とは意味合いは違うが、百閒の眼を通して描かれた芥川の日常は、文学史では知り得ない芥川を垣間見る事ができる。
芥川龍之介は睡眠薬を大量に服薬して亡くなった。
百閒によれば、亡くなる少し前から「半醒半睡の風人」で、「薄暗い書斎の床の間に据えた籐椅子に身を沈めて、客の前で昏昏と睡った。不意に目を醒まして、曖昧な対応をしたりした」「話を続けようとすると、もう眠っているのである」という様子であったという。(「湖南の扇」)
百閒は文学史に残る貧乏生活をしていたそうで(彼の生家は裕福な造り酒屋である)借金とその取り立ての関する記述を自身の随筆に多く残しているが、芥川との関わりも文学者としての交流の次に借金のお願いであったらしく、芥川が快く用立てしてくれている様子をいくつか読める。
もっとも、芥川の快い用立ては、自死を目前にしていたからなのか、元々芥川が快く友人の頼みを引き受ける人だったからなのか、それはわからない。
文学を学ぶ人間は、作品から作家の深層意識を読み取ろうとする。
作品は作者の意識の表層であって、創作には深層意識が必ず深く結びついているから、夢を読み解くように作品に垣間見られる作者の底意を読みとるのだ。
芥川のように自死した作家ならばなおのこと、作品に表れた変化から作者の心の変遷を読みとろうとする。
実際、芥川の場合にも芥川の真意を知るための試みが多くなされた。
しかしながら、友人である百閒の見解は「あんまり暑いので、腹を立てて死んだのだろうと私は考えた」。勿論 「芥川君の死因については、種種の複雑な想像が行われたが、そう云う色色の原因の上」での見解である。(内田百閒「河童忌」)
芥川君が自殺した夏は大変な暑さで、それが何日も続き、息が出来ない様であった。余り暑いので死んでしまったのだと考え、又それでいいのだと思った。原因や理由がいろいろあっても、それはそれで、矢っ張り非常な暑さであったから、芥川は死んでしまった。(内田百閒「亀鳴くや」)
芥川を偲ぶ河童忌(七月二十四日)は「暑い暑い」の大合唱だ。
年年に照りつけられる暑さかな 瓦となりて全かる身は(佐藤春夫)
年毎の二十四日のあつさ哉(菊池寛)
(内田百閒「河童忌」)
友達というのは、あっけらかんと「暑かったからあいつは死んだんだよ」と言うくらいで、良いのかも知れないと百閒を見ていると思う。
参考文献:
「湖南の扇」「河童忌」「亀鳴くや」 内田百閒 『間抜けの実在に関する文献』筑摩書房