2016年6月14日火曜日
映画「セント・オブ・ウーマン」を見た
映画の冒頭に出て来たタイトルは"Scent of a woman"だったのに、なんで邦題になると「セント・オブ・ア・ウーマン」にならないのかが不思議だ、ということをまず一番に言っておきたい。
英語を学ぶ上で一番面倒くさいと感じるのがこのaとかtheとか言う冠詞だ。
学校で「一つの」という意味だと習った"a"。
ならば単純に数えられる名詞だけがみんな"a"と思いきや、どうもそうでもないらしい。この区別が本当にわからない。
考えるより初めから名詞に冠詞をくっつけて覚えた方が早い、ということに大人になってから気がついた。
日本語には冠詞がないから、省いても問題はないけど、義務教育で英語を学ぶということは国民全員が英語を学ぶということなんだから、カタカナ英語にするときも最初から省かずに記述した方が結局は親切なのだ、ということを声を大にして言っておきたい。(うるさい奴)
私はこの作品をまったく期待せずに見始めたんだけど、見始めたら止まらず、結局2回見た。クライマックスでは泣きそうになった。
アル・パチーノが演じた盲目の退役軍人フランク・スレード大佐は、毒舌で気難しい性格が災いして人から受け入れられず、孤独に暮らしていた。
その大佐の元へ、数日間世話をするというアルバイトでチャーリーという高校生がやって来た。
チャーリーの性格の穏やかさと、本当は優しい心根を持った大佐が少しずつ打ち解け合い、最後には親子のように理解し合うと言う夢のようなお話である。
一見難しく見える人は実は良い人が多い、というのは、私の経験則から言っても真理だと思う。
世の中は不思議なもので、いかにも優しげな人は本当に優しい人と勘違いしがちだが、見るからに優しげで実際に優しい人は、実際のところ極めてまれだ。
大抵の場合、見るからに恐そうな外見とかつっけんどんな喋り方をする人ほど、懐に入って話をしてみると思いやりのある人だというケースが多い。
優しい人は優しく見せる必要なんかないから優しそうにしていないだけだ。
同様に、目が見えない人が人を見ていないかと言えば、そういう訳でもない。
むしろ、目で見える事物以外のものは、しっかり見ているものだ。
目が見える人間にはわからないが、見えないことで見えるものがあるというのも真理だと思う。
チャーリーが窮地に立った時、大佐は彼を救うために大勢の前で大演説をうつ。
その言葉が説得力を持ったのは、大佐が物事を見る目を持っていたからだ。
晴眼だった頃から物事が見えていたから、見えなくなった後が苦しかったのだろう。
この話は感動的なだけでなく、結講深い話だと思った。
アメリカのプレップスクール出身者に知り合いはいないから実際どんな様子なのかは知らないが、今話題の都知事が卒業したのと同じ大学・同じ学部を卒業した人を知っている。
知り合いのご子息で、私は彼が小学生の頃から知っている。昔からしっかりした子だったが、別にその大学を目指していた訳でも何でもなく、「ただの記念受験で受けたら受かっちゃった」そうだ。かの大学は合格すると辞退出来ないので、泣く泣く第一志望を諦め、行きたくもない大学に入学したと言っていた。(入学式では不機嫌そのものだったらしい)
「入ってみるととんでもなく性格の悪い奴らがうじゃうじゃいた」そうで(母親談)、四年間はひたすら我慢して、就職してからやっとのびのび出来るようになったそうだ。確かに学生時代の写真を見るとどれもこれも暗い表情だ。
以上のことを鑑みても、意外とこの夢のようなお話は現実ドロドロの真実の物語なのかもしれないと思った。
セント・オブ・ウーマン 夢の香り (字幕版)
このジャケットであの内容。ジャケ買いのカンが完全に外れた。