山本七平著『「常識」の研究』は評論家山本七平氏が当時(昭和50年代〜60年代頃)の社会を論じた評論集だ。
私は小林秀雄も好きだが山本七平も好きで、この人の本を何冊か読んだ。
時間の流れが止められないように、事象も又流れ続け、止めることは出来ない。
時代の変遷と共に社会を取り巻く環境は変わり、人の様相も変わっていく。
昭和の終りにはインターネットも携帯電話も無かったが当時はそれが当り前で、よく言えばおおらかに、悪く言えば原始的に、人も社会も動いていた。
ちょうどこの評論が発表された頃は、国鉄や電電公社が民営化された時代である。公に守られていた組織が大海に放り出されるような(勿論ひも付きではあるが)、世の中が大きく変わる節目の時期の一つでもあったように思う。
山本さんはそういう社会の流れを断片的につかみ、事象を論ずるマスコミを論じている。自ら出版業を営み経済人として生きていたから、雇われ記者の視線とは比べ物にならないほどシビアな目を持っていた。そのシビアな目でぶった切った先の多くがマスコミであった。
平成の世の中がもう30年にもなろうかという今、この評論を読んでも世の中がほとんど何も変わっていないことに驚く。
次に雷鳴があった。ものすごい音でね。その中に神の声があるかと一所懸命に聞いたけど何もなかった。ところが何もかも去って静かになりましてね、そよそよと風が吹いて、そうしたら、そのかすかなそよ風の中に神の声があった、というのが『旧約聖書』にあるんです。
神の声ってのは、こういうもんなんですよ。そよ風のように、ほとんど聞えなく囁いて来るんで、大嵐とか威圧的な雷鳴と一緒になんか絶対来ないというのです。
ですから、これは神の声であるなんて大きな声を出してひとが言ったら、それはおかしいんであってね。ほんの囁きのように人間の内心に囁いてくる何かという、こういう意味でしょう。
民の声だって、そんなに聞えるわけないんであって、民の中に秘かに囁かれている何か、それがほんとの声だということですよね。
だからこれが民の声であるなんて誰かが言ったらおかしいんです。そうじゃありませんっていうことなんです、それ。
「何よりも正義を愛す」山本夏彦 山本七平 (『「常識」の研究』山本七平著 文藝春秋社)
山本さんが引き合いに出しているのは旧約聖書だからそれこそどれほど前のことかわからない。
それが人間の本質だとは思いたくないが、私は今日にもこういう事象を毎日のように目にしている。
正義を愛する皆さんの声高な叫びがなくなることはないだろう。
必要なのは、声高な叫びが全てではないということを肝に銘じることだと思うのだけど、さてはて。
「常識」の研究 (山本七平ライブラリー)