2016年5月24日火曜日

映画「ダ・ヴィンチコード」を見た



この映画が公開された頃、本屋さんに行くと原作の翻訳本が平積みにされ、「今世紀最大のなんとか」みたいなコピーがデカデカと書かれたポスターが貼られていた。
私はいつも流行ものにまったく興味がないので、「ふーん」という感じで横目で見ながら通り過ぎた。
その「ダ・ヴィンチコード」をやっと見た。



いつものようにAmazonのプライムビデオ

ダ・ヴィンチ・コード (字幕版)



宗教を扱う映画の常として、この映画も上映を控えた地域があったようだし、当然ながら「見ないように」と通達を出した組織もあったらしい。
日本ではそういう遠慮も無く、みんな単に娯楽として楽しんだのだと思う。
この映画の取扱われ方は本来そうあるべきで、あまり深刻に受けとめないほうが良いし、受けとめようもない、というのが率直な感想だった。


私はキリスト教と聖書の知識はわずかにあるが、秘密結社やヨーロッパの歴史の知識は全くない。
故に、テンプル騎士団と言われても何のことかすらわからない。
劇中で説明のための台詞があるが、キリスト教や聖書に対する解釈だけを見てもこの作品独自の説を取っているということが十分に考えられるから、劇中の説明はあまり信憑性がない。
劇中で「こうだった」と言われれば「はぁ、そうですか」と思う以外なかった。

そういう所から言って、この作品がカトリック教会からボイコット呼びかけ措置を受けたというのが不思議だった。
「イエスに対する冒涜」と言われても(おそらく教会に対する冒涜ということなんだろうが)、「これを見て本気にする人がいるかぁ?」としか思えないのだ。


人ならぬ存在の力は宗教の類に関わらず、多くの人間が心に抱いているものだ。宗教の類を問わないということは、知識で人ならぬ存在の力を実感するのではなく、本能で感じ取っているということなのだと思う。

作中で奇しくもトム・ハンクスが言ったように、人は絶体絶命の時、ただ無心に祈るものなのだと思う。
それは宗教の力ではなく、人間に備わった本能だ。宗教は、人間に備わったそういう本能を各々の考え方で解釈しているにすぎない。

どんな組織でも、権威付けは必要なのだろうが、この映画を見て「だからバチカンは」などと言う人はおそらく居ないだろう。
もっとも私がそう感じるのは、宗教に関して良くも悪くもおおらかで適当な日本という国に育ったからなのかも知れないから、宗旨宗派によって解釈は違うのかもしれない。


作品の終りにトム・ハンクス演じるロバートが、メッセージの意味を解き明かす。
この謎解きはそんなに難しくない。おそらくほとんどの人があの詩のようなメッセージが読まれた瞬間、「あぁ、あそこか」と感じただろう。それくらい単純な謎解きである。

私にとって、もっと難しい謎は「結局ジャン・レノが演じたあの刑事は何だったんだ?」ということだ。
サスペンスドラマでも、大物がちょい役をやっていればそのちょい役が犯人と相場が決まっている。ジャン・レノが演じていたのは執拗で理不尽な捜査を執念深く実行するフランスの刑事、ファーシュだ。

日本警察の堅実さと比較すると、ファーシュ率いるパリの警察はいかにも適当で、死体をほっぽらかして全員でどこかに出かけるわ、ダイイング・メッセージは勝手に消すわ、証拠もないのに犯人扱いして人をイギリスまで追い回すわ、もう滅茶苦茶である。

最後までワクワクしながらファーシュ(ジャン・レノ)の正体と目的が判明するのを待っていたが、結局なんだかよくわからないまま終った。
あの難しい謎が解けた方がいたら、是非教えていただきたいところだ。


現代のフランスでシラスのように中世の修道院の僧侶みたいな格好をしていたら目立ってしょうがないだろうとか、あのイギリス人のじい様はなんであんなに金持ちなのかとか、フランスでは会う人会う人みんな秘密結社のメンバーなのかとか、突っ込みどころは満載だった。
そいいう意味で結構楽しめる映画だった。