2016年5月15日日曜日
映画「アンタッチャブル」を久しぶりに見た
「ゴッドファーザー」を見た時、雰囲気が「アンタッチャブル」に似ているなぁと思ったので、久しぶりに「アンタッチャブル」を見た。
例によって例の如くAmazonのプライムビデオ。
アンタッチャブル(通常版) [DVD]
この映画が公開されたのは1987年。
公開の数年後にビデオで見て「なかなか良い映画だ」と思ったのを覚えている。
当時、何かの雑誌で「出ている男たちがみんな格好良く見える映画」とかなんとかいうレビューが書かれているのを読んだ。
アルマーニが服を担当したから、というのが理由なのだけれど、ショーン・コネリーだけは反対して自前の服を来ていたそうで、ヨレヨレのスーツで出演している。
リアリティから言えば、ショーン・コネリーの言い分が正しいが、この映画はリアリティを追いかけて作られた訳じゃないだろうから、アルマーニでも良かったんだろうな、と今回見た後に思った。
最初に見てから二十数年の月日が経ち、私の経験値が上がって目が肥えたのか、単にへそ曲がりになったのかわからないが、最初見た時に思った「なかなか良い映画だ」という感想を持った自分に、「どこらへんでそう思ったの?」と聞きたくなった。
ケビン・コスナーは嫌いじゃないし、アンディ・ガルシアは「ゴッドファーザー3」で見たからどう違うか興味があったし、ショーン・コネリーの熱演も記憶に残ってるし、ロバート・デ・ニーロがアル・カポネをやっていたというし、再び見るのを楽しみにしていたのだけれど、始まって二十分しないうちに見るのをやめたくなった。
比べる方が間違っているのだけれど、いまだに「ゴッドファーザー」の1と2を見直しているくらいなので(今三回目に入った)、どうしてもそちらと比べてしまう。
「ゴッドファーザー」はモデルはあるがフィクションなので、ビトもマイケルもこの世のどこにも存在して居ない。なのに、「ゴッドファーザー」の方がむしろリアルだ。
なぜか。
一番はやはり、マーロン・ブランドの演技力に負う所が大きいだろう。
以前にも書いたが、ブランドの演技はリアルだ。セリフと感情と表情がすべて揃っていて、日常生活の当り前の振る舞いをごく自然にドラマで演じられる素晴らしい技術を持った俳優だ。
その演技力はしかし、独走するものではなく、周囲の俳優達もリアルなドラマに運んでしまう大きな度量をもつものでもある。
アル・パチーノをはじめ、ロバート・デュバル(トム・ヘイゲン)やジェイムズ・カーン(ソニー)の演技も素晴らしかったが、若い俳優陣を取り残さずに一緒に引き連れてリアルなドラマを見せるブランドの演技力はやはり特筆すべきものだ。
二つ目は脚本の良さだと思う。
「ゴッドファーザー」の1と2は、無駄なセリフが少ない。でも内容はちゃんとわかる。
セリフがうるさくない分、映像や俳優の表情に目が行く。
登場人物がしゃべり過ぎるのは、しゃべらないと内容を理解させられないからで、しゃべりの多い脚本はそれだけで全体の流れを妨げてしまう。
「アンタッチャブル」の脚本は、それでいくといささかしゃべり過ぎのきらいがある。
ケビン・コスナーが大根だとか、不細工と老人が先に殺されて男前だけが残るのは不条理だとか、アンディ・ガルシアの乳母車の下から撃つシーンはいくらなんでも待機時間が長過ぎて有り得ないとか、機関銃であれだけ撃たれたショーン・コネリーが虫の息なのに意外としぶといとか、そのショーン・コネリーが血まみれの手で取ろうとした先には一枚の書類しかないのに「何だ!?」とわざわざコスナーが聞くのはおかしいとか、ロバート・デ・ニーロの演じるカポネがいくらなんでもアホっぽすぎるとか(カポネほどの大物が頭が悪い訳がない)、マローン(ショーン・コネリー)ほどの目利きがあんな大雑把な情報の取り方(雨の中で殴り合い)をするとは思えないとか、突っ込みどころ満載すぎて、何とも言いようがない。
昔美輪明宏が「『ゴッドファーザー』もニーノ・ロータのあの音楽がなかったらクソみたいな映画だった」と言っているのを読んだ事があるが、「ゴッドファーザー」がクソみたいな映画ならば、それはマフィア映画を大真面目にヒューマンドラマに作ったことであって、映画そのものはダメ映画でもなんでもない。
むしろ「アンタッチャブル」のほうが「あの音楽がなかったら…」だと思うのだけれど、その辺りはどうなんだろう?
もっとも、見応えのある映画よりお金になる映画が良い映画、という価値観もまた否定出来ないことではあるから、色々言う方が無粋なのかも知れないが。