2016年5月12日木曜日

映画「波止場」を見た



マーロン・ブランドを「ゴッドファーザー」で久しぶりに見て、興に乗ってほかの作品も見たくなったので手っ取り早く見つかった「波止場」を見た。



この「波止場」は1954年の作品で、マーロン・ブランドが30歳の時に演じている。彼が演じたテリーは元プロボクサーのゴロツキだ。

この映画を見ていて最初に思ったのは、ほとんどの俳優が最初から最後まで、ほぼ同じ服で通している事。
服を変えてるときもあるけど、それは必然的な理由がある時だけで、いわゆるファンションという意味でとっかえひっかえ変える、ということはない。
「ジョーイの上着」という1着の服が重要な意味を持つわりに、それ以外の服は全部同じ。
同じなだけに一人一人の服が記号になっていて、その人の性格や気持ちを推測させる意味合いが強くなる。
個性的な顔立ちの俳優が多いというのもあるが、服が変わらないから「誰が誰かわからない」ということもない。
今程お金をかけて作られていないというのもあるんだろうが、服に意味を持たせるのも視覚的表現の一つだから、結果的にあるもの全てが表現に使われているんだなぁと思った。


マーロン・ブランドの演技力は相変わらずだ。
今回は主演で出番が多かったので、この人の何が人と違うのか、じっくり観察した。

気になったのは、彼の目。
よく見るとこの人はたれ目で、まぶたが厚く、意外と不細工な顔をしているなぁと思っていて、気づいた。
ほかの俳優さんで「この人はたれ目だ」と思った事ってないよなぁ、と。なぜだろう。

人の目尻が下がるのは、笑っている時とか困っている時とか、感情につられて表情が動くときだ。
俳優さんをよく見ていると、演技で表情は変わっても、目は変わらない。
怒っていても困っていても、目を見開いたり閉じたりするだけで、目まで変わる事はない。
この映画の中でも、ギャングのボスも、神父も、相手役のイディも、テリーの兄のチャーリーも、目は変わらない。

マーロン・ブランドは目まで変わる。


「欲望という名の電車」でも「ゴッドファーザー」でも、彼の演技を見ていると「もともとこういう人なのかな」と思えてくる。
「波止場」もそうで、元々ブランドがテリーのようなフラフラしたゴロツキみたいな人で、素で演じてるのかなと思わせるくらい自然だ。

それは彼が目まで演じてしまうからで、目まで変われば人はだまされてしまうのだ。


マーロン・ブランドを知っているのはある程度世代が上の人達で、おそらく若い年代の方は知っていても「名前を聞いた事があるかな」というくらいのものだろう。
数作の有名作品以外は、ほとんど知らない程度の映画にしか出ていないし、その有名作品も古いものが多い。

今の演技派の俳優さんでも、彼ほど自然に役を演じられる人は、おそらくそう多くはないだろう。
どんな役でも「普通に」演じられるのがマーロン・ブランドという俳優なのだ。


彼は、セリフを覚えて来ないことで有名だったそうだ。
覚えられないのではなく、覚えない事で自分を追い詰め、それを演技に昇華するという彼のポリシーによるものだったと言われている。
それくらい集中して自分を追い詰めて、はじめて見せられる演技なのかも知れない。
「20世紀最高の俳優」と呼ばれる人ではある。