2016年7月8日金曜日
映画「マイノリティ・リポート」を見た
そこはかとない今更感が漂う気もするが、プライムビデオに仲間入りしていたのでつい見てしまった。
マイノリティ・リポート (字幕版)
西暦2054年のワシントンが舞台。
近未来映画にお約束の「流れるような曲線で立体的に交差する道路」「変なデザインの自動運転自動車」「言葉で指示すると家の中の機械や道具が勝手に作動する」という「例の光景」が、いかにも便利になった未来を思わせる。
トム君が演じる警察官のジョンは、打合せの時に、湾曲した大きなスクリーンに様々な映像を映し出して同僚や部下と話をする。
スクリーンに映像を映し出す時のトム君の振りがいかにも「ヒーローがやるとこうなる」という感じで、「わかったから普通にやって下さい」と心の中でお願いしたくなった。(スピルバーグの趣味なんだろうか)
未来を扱う映画は、常に全てが「未来的」であるべきで、原始的な匂いを感じさせてはならないという変な呪縛があるように思う。
この映画の中でも、あらゆる所に網膜をチェックして人間の情報を認識するカメラがあって、普段は電子広告に利用され、同時に防犯カメラの役割を果たしている。
ただスラム街にはそういう「スーパーテクノロジー機器」は配備されていないので、未来人的に見ると「原始的」な生活が営まれている。
スラム街にはスーパーテクノロジー機器が配備されていないという所を突いて、容疑者になってしまったトム君は捜査網から逃れようとするんだけど、それよりも何よりも、「スラム街にはテクノロジー機器が配備されていない」ことに疑問を感じた。
住民が負担して配置するわけではなく行政が施すのだから、地区ごとに防犯システムも兼ねる機器が配備されたりされなかったりというのはおかしいんじゃないかと思うんだけど、「貧しい地域には電気や水道の施設がない」という国もあるそうだから、そう思うのは日本人的な感覚なんだろうか。
価値観の違いかも知れないけど「スラム街には網膜チェックの機械がないからね」「そらそうだ」と普通に思うのなら、その方が問題だと思うのは私だけか。
「パタリロ」で学んだ程度のタイムパラドックスの知識から見ても(パタリロはタイムワープが出来る)、矛盾がてんこ盛りのお話ではあるんだけど、未来の為に現在をいじり過ぎていて、「本当はこうなるべき時間の流れ」がよくわからない。
その辺の「よくわからない」気持ち悪さはトム君の顔でごまかされて下さいと言われているような気がしないでもない、不思議な展開の映画だと思う。
SFってこういうふうなんかな。