2016年7月20日水曜日

夏になると物を捨てたくなる



夏はどこでもたいていは暑いが、私の住む都市は全国でも有数の苛烈な夏を誇る場所だ。
気温だけでなく湿気も高く、関東に住む兄は七月から九月頭頃まで近寄らない。理由は「暑すぎて命に関わる」 からだそうだ。
確かに厳しい暑さは大変だが、ものは考えようで、その苛烈な暑さを利用する方法がある。



夏は暑い。暑くてイライラする。
日光が入ると灼けるので南側の雨戸を閉め、明かりとりの小さな窓から入る光だけで扇風機に当たり、35度とか6度の部屋で汗だくになっていると、頭がおかしくなりそうになる。

イライラとか不安とかネガティブな感情は嫌なものだが、見方を変えればこれは体からわき上がるエネルギーである。
エネルギーの無いところにエネルギーを発生させようとするのは難儀だが、望まなくてもすでに生み出されているエネルギーは、利用の仕方次第でプラスの方向に進む原動力になり得る。


イライラすると物に当たりたくなる。そこら辺にあるものが邪魔に感じられる。
薄暗い部屋の中は、実物以上にうっそうとして、小汚く見える。
あれもこれもいろんなものがあるから邪魔なんだ。処分しちゃえ。

すっきりすればきっと、涼しくなる。


大きなゴミ袋を広げ、目に入る不快感を起させる物をどんどん入れて行く。
暑いから「まだ使える」とか「高かった」とか考えない。
暑いから、涼を感じるくらいまで減らす。不快感から逃れるために、邪魔だと思う物をなくす。

不思議なことに、物が減ると本当に不快感は減り、心無しかすっきりした気持ちがよみがえる。


モノが心に与えて来る負担は思っている以上に大きい。
「読んでみたい」と思って買っておいた本も、読まずに置いて積みあげていくと「いつか読まなきゃ」という負担に変わる。
すでに読んだ本ですら、それが増えていったりすると、「また読まなきゃ」という圧迫感を感じ始める。


子供の頃、漫画が好きだったけど頻繁には買えなかったから、繰返し何度も読んだ。台詞を覚えるくらい読んだ。あんまり暇なときは色まで塗った。

授業中に先生の話も聞かず、副読本の資料集を読みふけっていた。教科書では飛ばされている細かなことがいっぱい書かれていて、授業よりはるかに面白かった。授業の間中、資料集ばっかり読んでいたので、覚えた。

一つの物を覚えるくらい読む、というのが私に取って基本的な学習方法だ。
目の前の物だけを何度も何度も読み返すことで完全に頭に入る。


大人になって、自分のお金でモノが買えるようになったら、「一つの本に集中して読む」ことが退屈になって、あれもこれも目につく物を買って積んでおくことが増えた。
読んだ所でまるで頭に入っていない乱読は、私にとって、興味を満たす足しにはなるが、それ以上に精神的な負担になる。
「理解出来ていない」ことを増やしてなんになるのか、その答が自分で見付けられないからだ。


今読む本が一冊あれば、それで良いんじゃないか、と夏になると思う。
お店に並ぶ膨大な量の商品の中から、気に入ったものだけを選ぶように、自分の持ち物の中から本当に必要な物だけを選び、それ以外は処分する。
勿体ないのは勿論だが、勿体ないことをしているのは自分だ。

書籍に限らず、この事は部屋にあるモノすべてに当てはまる。


今自分が使っているものだけあればそれで良い、というのは自分への肯定でもあると思う。
積み上げられたモノたちは、言って見れば「将来の自分への期待」であって、無意識に積み上げられた自分への期待とその負担が、心を圧迫するような気がする。

今の自分を肯定すれば、「いつか」を考える必要はない。読んでみたい本は今読めば良いし、今読めないなら持たない方が良い。

発展性のないことこの上ないが、自分への期待をなくすほうが、精神的には楽になる。自分が自分にかけるプレッシャーは、自分で思う以上に大きいのだ。


せめて夏のエネルギーを平和的に利用する姿勢は発展的な態度だと思いたい。