ミケランジェロの暗号 (字幕版)
暗そう…。
この映画は、オーストリアのユダヤ人画商(お金持ち)が、非ユダヤ人の使用人の息子ルディに裏切られ、収容所に送られて画廊ものっとられてしまうというお話。
ただそこはユダヤ人の利口さで、箱はあげるけど中味はわたさない。
最終的に得をしたのはさてどっち、という皮肉の効いた結末で終る。
ユダヤ人が賢いから差別の歴史を負うことになったのか、差別されていたから利口で金持ちになったのか、その辺りはユダヤ人の歴史に明るくない私がいろいろと言える話ではないけれど、いずれにせよユダヤ人には裕福な人達が多かったことと、その裕福さに嫉妬を覚えていた非ユダヤ人が少なからず居たことは確かだったんだろう。
今時は裕福な家に住み込みで使用人が働くということはほとんど見られなくなったが、ほんの少し前の時代には日本でも「住み込みの従業員」は珍しくなかった。
戦前に実家が裕福な商家だった人の話を聞くと、住み込みの丁稚さんや女中さんが居てあれこれと面倒を見てもらったという思い出話は頻繁に出てくる。
私の目から見ると、「店の人」と「うちの人」は明確に分けられ 、「うちの人」は良い物を取り「店の人」にはそこそこの物しか与えない線引きがかなりしっかりなされていたと思うのだけれど、「うちの人」として育ったお坊ちゃまお嬢様は、「みなさんと一緒に暮らしていた」という概念を強く持っているようだ。
ルディの肩を持つ訳ではないけれど、「ヴィクトルやカウフマン家の皆さんが思うほど使用人は幸せじゃなかった」ということだったんだろう。
立場の違いが生む境遇の違いが持つ呪縛は存外強い。
ハリウッドのアメリカ人目線ではなく、ドイツに住むドイツ人目線で描かれたナチ時代の映画を見ていると、ナチズムを生んだ当時のドイツとその周辺国の社会は、思いのほか複雑な感情や状況が絡んでいたということに気づく。
政治的な発言はともかく、表現としての映画を見ていると、意外とドイツの人達はナチ時代を繊細に扱っているように思う。
良くも悪くも感情のバランスをうまく取っているドイツ映画人の繊細な冷静さが興味深い。