2016年8月29日月曜日
映画「J・エドガー」を見た
レオナルド・ディカプリオがFBI初代長官ジョン・エドガー・フーバーを演じた「J・エドガー」を見た。
おそらく多くの日本人にとって、FBIは映画の中で名前を聞く程度の関わりしかないだろう。
私にとっては「州をまたいで起きた事件の捜査をする組織」という認識しかない。『FBI心理分析官』という本を読んだからプロファイリング技術が発達しているらしいということも知識としてはある。知識としてはあるけど、実際の捜査の中で他の部署とどう連携して、というような具体的なことは全然わからない。
余談ながら、昔テレビで「FBI超能力捜査官」というのも見たことがあるが、あれはや◯せで、実際にFBIにそんな捜査官はいないそうだ。
フーバーは、弱小組織だった捜査局を徹底的に改革し、亡くなるまでの48年という長期にわたって君臨した泣く子も黙るFBI初代長官である。
1924年から1972年までは、20世紀のアメリカの変化が思いっきり詰め込まれた時期でもある。
フーバーが捜査官になった頃は科学捜査はまるでなく、現場は荒らされ、指紋は無視され、証拠品も乱雑に扱われ、残された現場から分析して事件発生時の事実を推測するという感覚など皆無だったようだ。
映画「ゾディアック」では1960年代後半ですでに科学調査が重視され、どれほど容疑者が怪しくても科学的に証拠を提示出来なければ逮捕出来ないという捜査官のもどかしさがじわじわと描かれていた。
ゾディアック事件はFBIではなく地方の警察署が担当したようだが、いずれにせよ科学的な根拠で立証することがすでに当り前になっている。
それだけ見ても、フーバーの功績は大きい。
もっとも彼は人種差別主義者であり、治安を維持するというお題目のために盗聴はするし、政治家の弱みを握って脅すし、一説にはマフィアと結託していたとも言われているし、陰もまた深い人物だったようだ。
同時にゲイであったとも言われ、彼の恋愛や女装趣味のネチネチとした噂も絶えないようだったが、その辺りは監督のクリント・イーストウッドが優しく描いているので 、取り立てて変な扱い方はされていない。
アメリカの法律は知らないが、1954年に亡くなったイギリスのアラン・チューリング(第二次大戦中、ナチスの暗号エニグマを解読した人)は52年にゲイだったことが発覚し、当時のイギリスで同性愛は違法であったから衆目にさらされた挙句裁判で有罪になり、ホルモン療法を強制された上ぶくぶくに太って失意の中で自殺している。
ちょうどフーバーの活躍した時期と重なるので、アメリカではゲイは違法じゃなかったんかしらんとちょっと思った。詳しいことはわからない。
レオナルド・ディカプリオは存外芸歴が長く、十代の頃から俳優をやっている。
私の中では「ギルバート・グレイプ」(1993年)で障害を持つアーニーという少年の役を演じていたのが印象深い。
ディカプリオが演じているというより、アーニーという知的障害を持つ少年が本当にそこに居るようにしか見えなかった。
「タイタニック」でブレイクしてからはアイドル俳優みたいな扱いも多く受けているが、ディカプリオは本当は演技派だ。
「太陽と月に背いて」(1995年)という映画で若き天才詩人ランボーを演じていて、同じく詩人のヴェルレーヌとの同性愛がテーマの一つだった記憶がある。
少し老いたヴェルレーヌ(既婚者)とピカピカの美青年ランボーの恋愛が、いびつで純粋で破滅的に描かれていたけれど、「こういう風にしか生きられなかったであろうランボー」を映像の中に出現させていたディカプリオの演技もまた素晴らしかった。
今回の映画でもトルソンという青年と同性愛の関係にあったことを示唆する描き方がされているが、相変わらず上手い。
この映画の評判はどうも今ひとつだったようで、その要因の一つが「陳腐なメイク」にあったと言われる。
確かに青年期から老年期までを同じ人物が演じているから、メイクで老けさせる他なく、時によっては「舞台メイクか!?」と思うほど不自然なシャドウ、老化した肌を作るために貼りまくっている人工皮膚のお陰でまるで表情が変わらず、ただ目がぎょろぎょろ動いているだけという辛い場面もあるにはあった(特にナオミ・ワッツとアーミー・ハマー)。
1970年代に撮られた「ゴッド・ファーザー」のマーロン・ブランドなんか、今から40年も前のメイク技術なのに「マーロンは老けてこういう顔になったんだ」と思わせるほど自然で、表情の変化の乏しさは「マフィアのボスだから感情を表情に出さないんだな」と解釈させる演技であの老け役を乗り切っている。
アーミー・ハマーなんかはまだ本当に若いのにとんでもない年代まで演じたから無理といえば無理だったんだろうけど、演技は解釈でもある訳だから、もう少し深く考えて演じたら、あそこまでロボットっぽくはならなかったかもしれない。
この作品自体にクリント・イーストウッドが込めた思いは、フーバーへの批判ではなくて、むしろ彼一流の国を思う気持ちと、そこへ人生を捧げて生きたフーバーという人への賛美だったんじゃないかと思う。
フーバーは100%正しい人ではなかっただろうけれど、彼が言うようにアメリカという国と、そこで暮らす人達の生活を守ろうとする気持ちは、おそらく誰よりも強かった筈だ。
クリント・イーストウッドのアメリカへの想いが静かに込められた作品という解釈で見ると、メイクがどうだとか陳腐だとか小さなことはどうでも良くなる。
彼が祖国へ送るメッセージ・カードのような映画である。