2016年8月23日火曜日

映画「硫黄島からの手紙」を見た



クリント・イーストウッドが手がけた硫黄島二部作のうち、日本側から見た戦いを描いた「硫黄島からの手紙」を見た。

アメリカ側からの様子を描いた「父親たちの星条旗」よりも興行成績は良く(日本で稼いだ分もだいぶあるみたいだけど)、多くの賞を受賞したそうだ。




第二次世界大戦の様子を描いた映画というのは、どう作っていても賛否両論の意見が噴出する。
立場の違いが勿論あるし、思惑の違いもあるんだろう。
実際に戦場に赴いた世代の人達も高齢で亡くなられた方が多いし、存命であっても多くは語らないという方がほとんどだろうから、結局は映画製作者も見ている側も批判する人も「知らない人達であれこれ言ってる」状態に近い、というのが本当の所だと思う。


私の周囲にも80代から90代の戦時中を知っている世代が何人かいるが、多くは国内に居て、工場でパラシュートを縫ってたとか、儲備券(ちょびけん)の印刷の工場に居たとか(いわゆる「女子挺身隊」)、山の中に作物を取りに行ってたとか聞いた(当時旧制高校の生徒だった人談)。

「終戦で夜に電気をつけても良くなったのが一番うれしかった」と言っていた人も居た。窓からの明かりで空襲の標的になるのを防ぐために、夜は明かりを極力控えめにしていたそうだ。

「当時のことを話したって若い人達には理解出来ないだろうねぇ」という台詞を一番よく聞く。
それが本当の所なんだろうと思う。


私の父方の祖父は職業軍人(海軍)だった。
生家が貧乏だったから「国家に食わしてもらえ」と軍隊に行かされたそうだ。
職業軍人は戦闘をテクニカルに捉える傾向があるらしく、私が父や父方の叔母・伯父から聞かされた話は「おじいちゃんが船に乗ってると、むこうから敵の飛行機が来るでしょ、そうするとね」という技術論ばっかりだった。

「女性の居ない船に乗っていたから家事は何でもできた」そうで、「おばあちゃんより家事が上手い」とよく聞いた。祖母の名誉の為に言うと、祖母も家事は上手だったから、祖父はさらにその上をいっていたということだろう。
ただ「おばあちゃんがやるからおじいちゃんは普段は一切やらない」そうで、祖母曰く「おじいちゃんは縦の物を横にもしない」。

私の父方の家系はあっけらかんとしたところがあって、口は悪いし、大声でケンカするし、粗暴な貧乏人そのものだったが、じめじめしたところが無く、戦争に関しても暗い話は聞いたことがない。
それよりも終戦と同時に失業してしまったから「貧乏の方が辛かった」とよく言っていた。


母方の祖父は徴兵で出征し、そのまま戦死した。
母が祖母のお腹に居た頃に死んでいるので、母は自分の父親を知らない。
生まれた時から父親がいなかったから、生きるのに必死で悲壮感もヘチマも無かったそうだが、祖母は新婚時代に死に別れたので、あれこれと愚痴を言ってはいたらしい。
祖母はそのまま再婚しなかった。

母は終戦直後に生まれたので、戦争中の話は「知らない」と言っていた。戦争に関する見解も、学術的にどうこうとは言っても、感情的なことは「考えると疲れる」と言ってほとんど言わない。

ただ、一度だけ、時の総理大臣が靖国を公式に参拝した時に、「嬉しかった」と言ったことがある。
たまたま法事に来ていたお坊さんに、 「国の為に死んだのに、国がその死を認めてくれなかったら、私の父は犬死にしたことになる」とぽつりと言った。それが母の本音だったんだと思った。


この映画の中で渡辺謙が演じた栗林中将は、子供たちの為に絵手紙を多く残している。
戦後生まれの私が報道や書籍で見聞きする軍隊は、暴力や理不尽がまかり通っていたというような厭なことばかりだし、それはそれで事実なんだろうけれど、「存外風流な世界があった」ということも、あまり言われていないけど事実だったんだろうと私は思う。

父方の祖父が亡くなるまで大事にとってあったものに、祖父が乗っていた練習艦隊の中で発行されていた手作りの新聞がある。
年代的にもまだのどかな頃だったから、この映画の舞台になった頃とは世の中の空気もまったく違ったんだろうが、理不尽で四角四面だと思い込んでいた軍隊生活の中に、思いのほか風流な文化があったことを、私はその手作りの新聞で知った。

父が祖父から借りてコピーし製本したものが、今も私の手元にある。
栗林中将の絵手紙を思わせる、人間的な暖かみがそこにある。

戦争をするべきではないのは勿論だけれども、そこに携わった人達の心の内まで否定することは、先人たちへの思いやりに欠ける。

クリント・イーストウッドが描いたこの作品は、戦争とは人と人とのぶつかり合いであり人間同士の殺し合いである、ということを冷静に考える機会を、現代に暮らす私達に与えてくれたんじゃないかと思う。




原本は祖父宅でシワ一つない状態できれいに保存されていた











 毎日のように発行されていた手作りの新聞(有料)


 薄給だったそうですが。


  
お腹をこわさないように月が心配しているところ


  
家族に関する記事が多い



ラムネやお菓子は船の中で作っていたらしい



 私の祖父の若い頃