2016年9月3日土曜日
映画「シリアナ」を見た
中東とアメリカの石油を巡る駆け引きを描いた映画「シリアナ」を見た。
あちこちのレビューで「何気ないものが後で意味を持つから見逃さないように」みたいなアドバイスが散見されたので注意して見たが、一つ一つの場面と台詞が伏線になっているという意味では「オーシャンズ」シリーズの方が緻密に作られていると思う。
「シリアナ」という言葉の響きから「シリアの話かな」と思ったが、この映画の舞台は架空の中東の国だ。
ただ、それ意外の国や組織は現実に存在する物もあるので、存外生々しい。
話の内容自体は意外と単純だけど、登場人物の背景を説明する場面が少ないのと、「はい次、はい次」という感じに場面が繋がって気がついたら次の展開になっているので複雑に感じる。
冒頭にも書いたけど、「オーシャンズ」11から13の三作も、まともに作ったら膨大な長さになるであろうものを短くまとめているから、場面の一コマ一コマが伏線になってしまっていて、見落とすと「は?」ということになる。
ゴージャスな俳優陣に目を奪われて筋は二の次になりかねないが、あの映画は相当緻密に作られているから何度見ても面白い。
「シリアナ」はテーマが暗く爽快感のカケラもないので、一見難しい社会派に見えるが、あれは作りから言えば、個々の人間がバラバラに動くアンハッピーエンド・オーシャンズだ。
CIAやアメリカの財・政界の絡みは「きっとこんなもんなんだろうな」と思わせる流れで特に新鮮みは感じなかったが、私にとって「そうだったのか!」と思ったのは自爆テロの実行役が育まれる過程。
パキスタンからの出稼ぎ労働者ワシームは、金持ちのビジネス路線変更(=合併)のあおりを食らって失業する。
経済的な困窮に加えて、威圧的な扱いを受ける社会的弱者の彼等を救い、「人並み」の扱いを与えたのが神学校の衣を着た過激派組織で、本来ならば当然受けるべき人間としての尊厳を与えられるのと引き換えに、自爆テロの実行犯を担わなければならなくなっていく。それも極めて巧妙に。
神学校に集って学ぶ若者たちの目がキラキラとしているだけに、選択肢なく「名誉ある」実行犯に選ばれていく流れが悲しい。
この映画に出てくる多くの人達は、いわゆる使い捨ての「コマ」だ。
最後に笑った人間が勝者で、三角形の頂点に位置し、その下に広がる人間たちは全部コマ。
使える人間が少し上に行くことはあるが、それも頂点に位置した人間の為になされたことで、不要になれば捨てられる。
頂点に反旗を翻し逆転を企てても、悲しいかなつぶされていく。
状況が変われば、頂点も更に上の頂点に捨てられる。
巨大なヒエラルキーが、力とお金を動かす究極的な構図なのだ。
途中、物語の舞台となった「中東の架空の国」の王子ナシールが、「アメリカにインフラ整備とオイルの取引の面倒を見てもらった代わりに、高い航空券を買わされるような協力も強いられて来た」みたいな台詞をアメリカ人のアナリストに言う場面がある。
中東のお金持ちの散財っぷりは世界中で知らない人もいないだろうが、その裏には経済的な協力要請があったんだと初めて知った。
以前、某石油成金の国から来たビジネスマンのおじさんたちと喋ったことがあるが、アラブ人のお金持ちは金銭感覚がしっかりしていて、変幻自在に交渉をする印象があった。額は関係ない。
アメリカ人の商売人はタフだろうし「これをやってやるからお前はそれを買え」という要求も戦後の日本が歩んで来た道そのものなんだろうけど、独特の巧妙な交渉力を持つアラブ人が、果して本当にこの王子のように素直なアメリカ的価値観を持つのかどうか。
むしろあのアラブ社会で「筋の通った」価値観を持っていたら遅かれ早かれ内輪からつぶされそうな気もするが、さて如何。
なんだかオスマントルコを思い出した。