2016年1月26日火曜日

間違いだらけの翻訳の効果





よく、日本人は英語を「読む」のと「書く」のは得意だけど「聞く」のと「話す」のが不得手だと聞く。

受験英語の名残だそうだ。

定説に逆らうようで申し訳ないが、私には「読む」と「聞く」は受ける感覚器官が違うだけで、「受け取った英語を理解する」という意味では同じことに思える。
「書く」と「話す」も「言いたいことを伝える」ということに変わりはない。



基本、英語は「通じれば良い」と思う。
私は発音もひどいし、スペルがわからないときはメモ用紙に絵を描いて理解してもらう原始人っぷりだが、それで相手が怒ったことはない。
必要なことは「相手が何を言おうとしているのか」と「それに対してどう答えれば相手の役に立てるのか」の二つを正確に把握して、間違いなく相手に伝えることだと思うのだ。

私は言いたいことを言葉にする技術を養う為に、「文学作品を英訳する」というのをやっている。
人に見せる為に訳す訳じゃないから、間違えたって構わない。
よく「日記を英語で」と聞くけど、英語で日記を書こう!と思った途端に今日あった出来事を全部忘れるし、自分の手持ちの表現だけで書くとつまらない駄文ばかり製造することになる。
ならば右の物を左に訳した方が良い。
原文は別に何でも良いけど、自分の生活とは無関係な文学作品だと楽しい。好きな作家の作品なら頑張れるし、何より飽きない。

一度や二度では効果はないが(何にしてもそうだ)、それを100回200回とコツコツ続けていくと、結講身になっていく。
辞書を調べ、身をよじらんばかりに考えて書いた表現は、ちゃんと頭が覚えていて、必要な時に口をついて出てきてくれる。

作家がこちらの意図などおかまい無しに書いた表現の中には、こちらの不得手な表現だってちゃんとある。その不得手にぶつかって乗り越えることは最短で効果的な学習法なのだと思う。