2016年1月28日木曜日

テレビ報道を考える


テレビをほとんど見ない。
見るのはせいぜい落語と格闘技くらいで、他は見ない。

テレビを見ないと困ることがあるんじゃないかとよく聞かれるけど、困る事は皆無。
むしろテレビと距離を置いていると、「公共の電波を使ってるんだからテレビは正しい」と信じている人が多いことに驚く。
たまにテレビでニュースを見ると、映像のバックに流れる音楽や演出で、番組制作者の意図的な「意味付け」が見えるけど、おそらく常にテレビを見る人は気づかないだろう。



海外のニュースをご覧になる方ならご存知だろうが、日本で報道されていない事実は多い。
報道されない事も「存在しない」訳ではないから、それもこれも加味して考えないと、本来の意味で正しい判断はできない。
付加情報に不足が生じることに自覚を持たない弊害は実は大きい。

ごたごたといろいろある時ほど、それらを報じる報道機関の「報道しない自由の尊重」と「物事の意味付け役を率先して引き受けようとする姿勢」に食傷気味になる。
報道機関は事実を報じるのが本来の役割で、物事の意味付けまで担うのは行き過ぎだし、物事の意味付けをしたいのであれば「報道機関は中立」という看板を下ろして「私達のポリシーはこうである」と掲げるべきだ。
そう考えてた時に、山本七平さんの著作からピッタリの表現を見付けた。

「ナ リタ」という問題には、二つの要素がある。①空港それ自体が持つ問題、②過激派という問題。 そしてこの①②は原則的には無関係で、①がなくても②は存在するし、②がなくても①は存在する。従って①を解決したからといって②が消失するわけではな く、②が解決したからといって①が消滅するわけではない。ところが、マスコミはこの①②を同一問題のように取扱って「問題化」するので、多くの人は①②が 一つの問題であるかのような錯覚を抱いている。
  (『「常識」の研究』 山本七平 文藝春秋社)

昭和五十年代の著作なので例えは古いが、ここで書かれている事は今でもしばしば見られる報道機関のはらむ矛盾だ。
テレビという「家の中に入り込んで家族のように色々言う」存在は、家族でもなければ何でも教えてくれる先生でもなくて「ただの報道機関なのだ」という冷めた目を、もう少し持ってもいいんじゃないだろうか。

 「常識」の研究 (山本七平ライブラリー)